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インタビュー

2018.11.28

スペシャルインタビュー【vol.7①】 元 プロサッカー選手 中西 哲生さん

アスリートjob インタビュー vol.7
元 プロサッカー選手(スポーツジャーナリスト)
中西 哲生さんNAKANISHI TETSUO

アスリートJob
スペシャルインタビュー

アスリートJobスペシャルインタビューとして、元プロサッカー選手の中西哲生さんにお話をお聞きしました。現在は、スポーツジャーナリストやMCとして、テレビやラジオでも活躍されている傍ら、横浜F・マリノスの久保健英選手やレアル・マドリードU15の中井卓大選手へのパーソナル指導を継続中。自身の経験も振り返り、アスリートの力を引き出すために必要なこと、そして現役引退後を見据えたデュアルキャリアの重要性も語っていただきました。アスリートJobでしか聞けない、大変貴重なお話を3回に分けてご紹介します。

●経歴● 1969年 愛知県名古屋市出身。
1992年 同志社大学経済学部卒業。
1992年 名古屋グランパスエイトに所属。
1997年 川崎フロンターレに所属。キャプテンを務め、2000年にJ2初優勝、J1昇格を果たす。2000年末をもって現役を引退。
2008年 財団法人(現:公益財団法人)日本サッカー協会特任理事に就任(現在は参与)。
【現職】川崎フロンターレ クラブ特命大使、島根県出雲市 出雲観光大使

アスリートJob’s EYE!

ズバリ言います!これほどまでに奥深く、かつ科学的で、経験値に裏付けされた、「アスリート学」とも言えるような内容は聞いたことが無い。それほど内容が濃いし、深遠である。同時に、これほどビジネスにも活かせる情報はそう無い。ビジネスパーソンとして成長するには、「自らの決定の数に左右される」と言われるが、まさにスポーツと同じ。言われるままに、受け身で仕事をすると育たないのは、すでにスポーツの歴史にて証明されている。自分で決定し、能動的に動くことの大切さ、「TAKE」の前に「GIVE」の大切さ、「WANT・CAN」の前に「WILL・MUST」の大切さを、スポーツの可能性の面から中西さんには教えて頂いた。アスリートだけではなく、ビジネスリーダーや経営者にも、是非一度は読んで欲しい。

【スポーツの可能性と生き方】

アスリートには、アスリートとしての経験から自分で選択・決断する力がある。
それは生きていくうえでも、とても大事なこと。
僕が、久保選手や中井選手に伝えていることは、サッカーというより、基本的には立ち方や姿勢が重要なので、『動きの基本』を教えています。サッカーをしている時間だけではなく、普段立つときの姿勢をどうすればいいのか等、ライフスタイル自体がフィットネスになるのがベスト。どんな人であっても、何年間かその環境でやってきた身体の使い方はいきなり変わるものではないので、それを変えるためには生活から変えるしかない。生活のなかでどうすれば良いかもアドバイスしているし、食事をする時間や内容等も教えています。
また、これらのあらゆる動作においては、首の位置が重要ですが、現代の人類は首が前に傾く所謂“スマホ首”になってしまっているので、そういうことも根本的に解決していかなければいけないことを前提にしています。スポーツというのは、ウェアもそうですけど、僕たちが着ていたジャージが今は普段着のジャケットになっているように、時代を表している。最先端のものがスポーツにくるような時代です。また、スポーツに関わる理論もそうですし、服装もそうです。革靴も、サッカーシューズに使われていた特殊な素材になっています。スポーツをやってきた人間として、ライフスタイルや様々なプロダクト、生き方、メンタリティー等、いろいろなところでアドバンテージを出せるのがスポーツだと思います。
たまたまある方に、日本の幸福度合いの低さにはどこからきているのかという話を聞いた時、「今は、子どもが人生の選択肢の自由が少ない、選択できるような人生になっていない」と仰っていて、日本の政治や、学校・会社のシステムから考えると、答えが何となくカチっと決められていて、自由がありながらも“選択”という意味ではあまり自由がないのではないかと感じます。「選択の自由さ」がもっと柔軟に出てくれば、もっと幸福度が上がってくるのではないかということを仰っていて、自分も確かにそうだなと感じます。
ただ、その中でも例外があって、スポーツ選手はそうではない。スポーツ選手は、自分で選択してプレーしています。特にサッカーは、1プレー1プレーごとに指示されないので、立ち位置やどのくらいの速度で走るかなど、自分ですべて決めてプレーしている。結局、自分がしたことに対しての責任として、1プレー1プレーが良かった悪かったと判断されるので、スポーツをしている人は、物事を選択した後ののめり込み方や没頭する力、度合いが強いと思います。
今はコレとコレを比べて恣意的にある方向へ誘導することが結構多いですが、子どもにも選択の自由を与えたほうが、それに対して責任を持ち、のめり込む可能性が高いので、自分で自分の方向を決めて欲しいです。
自分がサッカー界のためにできることはどんなことか。
そう考えていたら、やりたいことではなく、やるべきことが見えた。
自分が子どもの頃からそういう選択肢が多いなかで育ったからか、コンサルタントの仕事を頂いた時も、自分にできることは何だろうって考えるようにしています。引退後、サッカー解説だけでは食べていけないと感じたのと同時に、僕はもうその仕事はやらないと決めていました。やらないと決めたというよりも、自分がやるべきことは、サッカー自体を広めることであり、サッカーやスポーツ選手の社会的地位を上げていきたいと思っていました。自分がサッカーというスポーツを伝えていくプロセスにおいて、サッカーの解説をしていると、専門的なものはもちろん伝えられますが、多角的に見られなくなってしまうものです。だから、サッカーとは関係ないスポーツやモノも見る(観る)ことで、よりサッカーを新鮮に見ら(観ら)れるし、もっとこうしたほうがいいのではないかと気づくことも多いです。
ちなみに、解説の仕事は、引退後すぐに頂きましたが、この仕事は自分がやるのではなく、引退後の選手に仕事をするチャンスを増やすために自分は別なことをすべきだなと、頂いた時にはすでに思っていました。サッカー界を引退した選手が座るイスはある程度何個か決まっているのではと。その引退後のポストを増やすことが自分の役割だとも思っていました。サッカーを通して、いろいろな選択や決断をしてプレーしてきた人たちが、サッカーを辞めても、他の世界で活躍できる人はたくさんいると思うし、自分としては、新しいイスを増やすことも大事だと思っていました。自分がサッカーを辞めた後の解説の仕事というのは、引退後の選手が各局の専属解説のイスを取り合っている状況にしか見えませんでした。新人が出てくると、それぞれみんながまずは自分のイスを守ろうとする動きがありました。解説の仕事を始めた時に、「あいつ元日本代表じゃないのに…」とか「あいつに何が話せるんだ」などいろいろ言われましたが、全然気にしていませんでした。自分自身、人とは全然違うものを絶対に出せるという自負はあったのと、同時に、解説業界での閉塞感を感じていました。仕方のないことだとは思います。皆が自分の生活がありますから、それを守るのは当たり前のことだと思います。でも、それは自分としてはなんとなく違和感を抱いていました。
結果、今まで、サッカーのためにいくつか自分が仕事をさせて頂いて、サンデーモーニングやニュース23など人気番組で2002年W杯時にサッカーが取り扱われるようになり、自分が出ることによって今までなかった場所に、新しいサッカー人が座れるイスを増やせたのではないか、と思っています。もちろん運にも恵まれていたと思いますが、さまざまなメディアでサッカーを広められたということは良かったです。
周りからは、自分のことを考えて”俺が俺が”でいいんじゃないかと言われましたけど、結局は、後で気が付いたことですが、サッカー全体のため、皆のため、誰かのためとか考えて仕事をやっていたら、結局あとで自分に返ってきました。そのサイクルが10年後だとしても、返ってきました。お陰様で、引退後18年経っても仕事が減らないのは、やはりそういうスタイルで仕事をしていたからではないか、やってきたことは間違っていなかったと思っています。もし自分のためだけに生きていたら、今のようなことにはなっていなかったのではないか。サッカーに置き換えると、このボールを奪って味方の選手にパスをするということをひたすらやってきて、誰かを輝かせることで自分が輝けるということが本能的にわかっていたので、だから自分だけ解説ばかりやるのは違うと思っていました。自分がより役に立つためにはどうすればいいのかを考えて、解説者の道へは進みませんでした。

【自分をリセットし、次に向けて動ける圧倒的行動力】

プロサッカー選手になった時に、サッカー選手を辞めたあとのことを考え始めた。
~デュアルキャリアづくりの始まり~
大学2年生の時に、「同志社大学に行くことができたから、商社かテレビ局、もしくは広告代理店に就職したい」と母に話をしたところ、それを聞きつけた父から手紙をもらい、そこには、「親としては、サッカーをさせるためにお金も時間もかかったし、ある日突然サッカーを辞めると聞いたら、それは親としても寂しい。しかも、2年後にはもしかしたらJリーグができるかもしれない。残りの大学生活をかけて全力でプロをめざして、それでも叶わないなら仕方がないけれど、全力を尽くす前に諦めるべきではないのではないか。」と書いてあり、そこで全力を尽くしていない自分に気づかされました。昔はストイックだったのに、大学生になり独り暮らしをしたせいか、お菓子を食べたり炭酸飲料を飲んだりと心も身体も緩んでいたと思います。そういう解き放たれる自分をリセットして、改めて全力でサッカーに取り組む決意をしました。そこから、栄養学も学ぶようになり、「もう一度プロをめざそう」・「今の自分のすべてをサッカーに注ごう」という生活に変えました。
結果的に、僕の地元の名古屋グランパスエイトから加入のオファーを頂くことができました。でも、教育者だった父は、いざ僕がプロになると、「いつ辞めるんだ?サッカー選手を引退した後、何をするかというイメージはあるのか?」と聞いてきたのです。もちろんそんなことを考えていませんでしたが、その時から引退後のために現役中に何をしなければいけないのか、ということを考え始めました。そこで、まず英会話を学び始めました。父の仕事の関係で、中学生のときに1年ぐらいアメリカに住んでいた経験があったので、多少は喋ることができたのですが、ブラッシュアップしながら将来的にある程度使えるようにしたいと思っていました。毎週月曜日は、父の大学の研究室に在籍していた外国人学生が自宅に来て、その日は家族全員が英語で会話をし、夕食を共にしていた経験も糧となりました。
その他にも、パソコンを使えるようにしておいたほうがいいと考えました。当時は、Windows98が出始めた頃で、まだJ2などもなく、JFLがJリーグの直接の下部組織だった頃です。1997年川崎フロンターレ(当時JFL)に移籍した時に、まだJリーグのチームでもホームページはほとんどなかったはずですが、スポンサー企業の関係もあってホームページが開設されることになりました。その際にチームの広報から「誰か選手の日記のようなものをブログで書いて欲しい」と依頼があり、ブログでの執筆活動を始めたことが、今考えるとデュアルキャリアの始まりでした。
「現役後は誰からも見向きもされなくなるよ。」衝撃的なその言葉に危機感を感じた。
いざブログを始めたものの、何を書けばいいのかわからない手探りの日々が続きました。そんな中でも、やはり試合の感想を書くのがおもしろいと思いはじめ、毎試合後に書くようになりました。文章は下手で、元々作文も苦手だったので苦戦しましたが、原稿はなるべく試合直後に書こうと決め、アウェーの試合でも「NECモバイルギア」を持って行き現地で書いていました。当時は、携帯電話がようやくムーバ(mova)になったばかりで、通信速度がまだまだ遅くて本当に苦労しながらブログを書いていました。今となっては、毎試合後にブログを書いていたことが、後々すごく役立ったと思っています。何より、自分の考えを言語化することで“気づき”が多く生まれ、実際にサッカー観も変わりました。そのブログでの内容は、1999年、川崎フロンターレがJリーグに昇格した時に、『魂の叫び』という題名で本になり、幻冬舎から出版されました。
そんな執筆活動を続ける一方、「1週間に1回は、必ず別の業界の人に会う」ということを決めて、実践していました。なぜそんなことをしていたかというと、有名な企業の重役でもある先輩から、「現役中はいろいろな人に会ったほうがいい。現役を引退した途端、誰からも見向きもされなくなるよ。そもそもサッカー選手に興味がない人も多い。だから引退後もきちんと考えておいた方がいい。」と言われ、それがすごく心に刺さりました。それがきっかけとなり、危機感を覚えるのと同時に今のうちにいろいろな人に会って人脈を作りたいと思ったので、たくさんの方とお会いして、サッカーに没頭してきた自分にはない感性を学ぶことができました。
これからは『言語化』が重要。そのためにまずは『文字化』しろ!
いろいろな方とお会いして、特に印象に残り、衝撃を受けたのは、「とにかく文字を書け!」・「引退後、解説や放送業界で活躍したいなら、まずは文字化できなければ言語化なんてとてもできない」という言葉でした。だから、「僕は原稿なんて上手く書けません」と言っても、「今こんなにたくさん喋ってるんだから、書けないことないだろ。今話していることを全部書けばいいんだよ。」と言われました。確かに冷静に考えたら、自分はこんなにお喋りだから、話せるということは書くこともできるのでは、とブログをとにかく書き続けました。そうすると徐々に周りが反応してくださるようになりました。
書いていた内容は、明日の試合はこんなことを考えて戦う、とか、今日こんなことを考えて戦ったなど、今では、そんなこと書いたらチームから情報漏洩と言われかねない内容でした。ただ当時はほとんどホームページを見る人がいなかったので、今のような制限はなかったのです。そして、その内容に反応してくださった方とお会いするうちに人脈が広がっていきました。
そんな中、まだ現役中の1999年に、『Number』(文藝春秋)でコラムを書かせていただくことになりました。例えば、中田英寿選手(当時)をもとに、ヨーロッパで日本人が通用するには?というテーマで執筆しました。その当時から、姿勢や骨盤の重要な役割について訴えていたのです。サッカー選手としては一流ではありませんでしたが、まわりの一流選手とプレーができる環境に恵まれていました。その一流選手とプレーしている時に、順序立てていかに論理的にプレーするか、そして、より効率的にチームのために何ができるか、どう貢献できるかを常に考えていました。
引退後は、自分は今どのチームに所属しているのか、と改めて自問自答した時に”日本サッカーチーム”に所属しているのだと、そして、そのなかで自分が何をすべきかと思っていて、サッカー・スポーツとは全く違うことをしたほうが多角的にサッカーを見る(観る)ことが可能になり、かつ、それが日本サッカー界の進化につながるのではないかと思い、ラジオのパーソナリティという道を選択しました。元々自分はお喋りだから「僕は喋れる・解説には自信がある」と自負していましたが、いざ始めてみると自分の考えを言語化することの難しさ、重要さが本当に身に染みました。しかし、ブログや雑誌での執筆活動で培った自分の考えを文字化することが、ラジオでの言語化に非常に役立ちました。

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