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インタビュー

2019.07.01

インタビュー vol.13① 元プロサッカー選手 安武 亨 さん

アスリートjob インタビュー vol.13
元プロサッカー選手
安武 亨 さんYASUTAKE TORU

キャリアにおいても人生においても、
最大の武器は『人間性』
~結果はすぐ出るものではなく、
5年後、10年後に出てくる理由~

アスリートJob’s EYE!

元J1リーグのプロサッカー選手で、現在は桐蔭横浜大学サッカー部の監督をされている安武監督のアスリートJobインタビュー。
元プロサッカー選手からセカンドキャリアを形成してきた経験と大学のサッカー部監督という立場からの目線にて、自身のキャリア形成のポイントやアスリートがキャリア形成を成功させるうえでの重要なポイントを熱く語って頂きました。
極めて多忙なスケジュールの合間でのインタビューでしたが、本当に気さくにお話頂き、とても楽しいインタビューの雰囲気であったものの、話の内容はアスリートのセカンドキャリアを考える上で、極めて重要なことばかり。
それは決して「難しいこと」ではなく、「シンプルではあるが、なかなかできないこと」。でも、極めて重要なことであるとご指導頂きました。
アスリートだけではなく、ビジネスパーソンにとってもヒント満載です。

―― 安武監督のプロアスリート時代から現在に至るまでのキャリア形成と、それらを大学の現場で働いている目線からもお話いただけるとうれしいです。監督ご自身も選手をされていた中でセカンドキャリアのことを感じられたのではと思いますので、そのあたりのストーリーも語っていただければと思います。また、大学から見る学生アスリートのキャリア形成についての課題や、Jリーガー(プロサッカー選手)、プロアスリートのセカンドキャリアについてお感じのこともあるのではと思います。
実は、中学生(福岡の玄洋中学校)の時にサッカーを辞めようとしたんです。小学生の時は町のクラブチームに所属し、市選抜にも選出されていたのですが、中学の時はサッカー部に顧問の先生がいなくて、みんな練習しないので、一人でボールを蹴って練習していました。その頃、このままではうまくならないと感じて、サッカーを辞めようと思いました。それで、我が家がテニス一家だったことと、私も幼少期からテニスも両立していたこともあり、「サッカー辞めてテニスする」と親に言ったのです。親は喜んで「お前やってくれるか」という感じで、1週間ほどテニス一本にしてみたのですが、やはりサッカーが好きなので、やめられなかった。町にあるクラブチームがけっこう強かったこともあり、入団させてもらい、中2からは真剣にサッカーに打ち込みました。指導者は大学生でしたが、サッカーを通じていろんな人と出会い、同じ志を持つ仲間ができました。
地元にあるサッカークラブはわかばFCという老舗のクラブです。当時はJリーグの下部組織はありませんでしたが、わかばFCは強かったですね。僕は、町の選抜メンバーにも入っていたので、名前を覚えてくれていたみたいで、入団させてもらいました。その後、わかばFCの同級生が、サンフレッチェユースのセレクションを受けに行くと言ったことから、私も連れて行ってもらうことになりました。当時アビスパ福岡とかはまだなく、藤枝ブルックスや鳥栖フューチャーズなどがありましたが、Jクラブが九州にはなくて、一番近いのが広島でした。サンフレッチェユースのセレクションには300人ほど来ていました。西の方にチームがなかったのでみんな行ったのだと思います。
―― 安武監督がサンフィレッチェへいくきっかけ、そして、「がむしゃらな選手」として活躍!

当時はスカウトではなくセレクションで、300人の中から受かったのは3人くらいです。僕もサッカーは下手だったのですが、足だけは速かったのです。サッカーの「サ」の字も知らない、そこらへんでボール蹴っている子という感じだったのではと思います。身体能力を買ってもらったのだと思いますが、当時は自分の身体能力が高いということさえ、わからなかったです。僕はちょっと変わっていて、テニスとサッカーを小学校の時にやっていて、中学2年生くらいから本格的にサッカーをするようになって、そこからですからね。ユースに行って、1学年10人くらいのチームで、まだ2学年しかなく、1年生のときは、遠征試合に18人が行くと、3、4人しか残らないのですが、その中の1人が僕でした。高校はサンフレッチェユース選手が全員通う広島の安芸高田市にある吉田高校に通っていました。僕の場合は県外受験者だったので、中学3年の3学期から移り住んで、町のおばあちゃんの家に下宿していました。それで、僕たちが入学する時に寮が完成したのです。僕はサンフレッチェの2期生だったので、先輩は10人しかいません。同期も10人。僕はただ足が速いだけなので、遠征メンバーには入れませんでした。なので、残った3、4人で、「なんで俺たち行けないんだろう」なんてブツブツ言っていました。ようやくメンバーとして遠征に連れていってもらえるようになったのは、高校2年生の後期で、試合に出場するようになったのは高校3年生の時です。そして、3年生の夏ごろにプロの話がきました。自分がどのくらいのレベルかを理解しないまま、ただずっとしがみついていたら、プロの話がきたのです。

自分がそれほどのレベルの選手だと思わないままプロになって、プロになってからも思っていなかったです。プロになっても自分より上手い人はたくさんいるので、とにかくこの人たちにがむしゃらにしがみついていかないと、という思いで続けていたら、結果「がむしゃらな選手」になってしまったのです。今になってみると、もっとやりようがあったなとは思いますが、当時はがむしゃらにやることしか思いつかなかったです。僕は無名中の無名の選手で、運よくプロになれました。それも親のDNAのおかげです。親が足が速く、僕も足が速かったので、そこに魅力を感じて取ってもらえただけなので、本当に運が良かったと思います。

その魅力(足の速さ)も、50m走は調子がいいと6秒切ってました。とにかく走れるので、ポジションはサイドバックです。僕は、ビューと走ってビューと戻って、ビューと走って、ビューと戻るだけなんです。でも運動量とかスピードはけっこうあったと思いますね。当時は全然わからなかったですが。それでプロになって、やっぱり一生懸命やるだけでは、なかなかついていけなかったです。でもすごくうれしかったのは、僕が初めてベンチに入った時に、今はもう亡くなられたエディ・トムソン監督が、「ヤスは練習の空気を変える」と言ってくれたことです。要は、ベテラン選手に対しての説教の材料のような感じでベンチに入ったのです。ベテラン選手たちも決してあぐらかいてるわけでなく、一生懸命やっていたと思いますが、「1年目のこんな子どもがこれだけ練習の空気変えるくらい必死に声出してがむしゃらにやってるのにお前たちは何なんだ!」といった説教をする際の材料に使ってもらったのです。そう言ったからにはベンチに入れないといけないじゃないですか。それで初めてベンチ入りできたのです。18歳のときです。当時は、現在の日本代表サッカー男子の監督の森保一選手、高木琢也選手、前川和也選手などがいた、黄金時代でした。

その時、一生懸命やるものだなと思いました。でも、やはりプロは実力の世界なので、一生懸命やるだけでは限界が見えるというか、ただ当たり前のことをやっているだけなので長続きはしないですよね。その後もとにかく一生懸命やりました。試合にも出場し、最初のマッチアップが鹿島アントラーズ戦で「ビスマルクを止めろ」と言われましたが、あまりにもすごい選手で止められませんでした。「ヤス行け!ビスマルクをしっかり見とけ!」と言われてましたが、あっという間に横パスされてしまって。その横パスの先には、さらに当時ブラジル代表のジョルジーニョ。止めるのはまったく無理でした。当時私は18、19歳。僕のように田舎から出てきた選手がビスマルク相手では、もう全然ダメでした。その次の清水エスパルス戦も出してもらいましたが、当時バリバリのアレックス・サントスを「止めろ!」と言われて、スピードには自信がありましたが、全然ダメだったことを覚えています。それまでも、自分をいい選手とは思っていませんでしたが、あらためてプロとして全然通用しないと思いました。

―― 厳しいプロの世界で戦っていく術とは?

プロになってすぐ、厳しい世界だと感じました。子供のころテレビで見る高木琢也選手はシュートが下手に見えていたのですが、実際に高木選手と練習すると、本当に上手で、シュートもバンバン決めるんですよ。自主トレもしっかりやっていました。それに、高木選手が前に立つと(身体が大きくて)ボールが見えなくなるのです。本当に刺激を受けました。もちろん日本代表だから上手いのは当然ですが、僕たちはミーハーなので、ファン目線で見ていたのです。一緒にやったらもうレベルが全く違う、やっぱり自分はまだまだだと痛感しました。プロデビューさせてもらってからは、一生懸命やりましたが、駆け引きなんてできないですし、速い相手にどういうふうにディフェンスをすればいいか悩みました。今でこそわかりますが、当時は自分より速い選手とマッチアップしたことなかったので、何もできなかったのです。それで、このままじゃダメだという思いをずっと持っていました。そして、次のチャンスを待っていましたが、なかなかチャンスが廻ってこなくて、2年でクビになりました。その際に「移籍リストに載せようか」と言われましたが、移籍してもまた同じ課題でぶつかるだろうと思いました。サッカー大好き少年がそのままプロになったような状態で、このままではどこに行ってもダメだと感じました。僕自身、本当にサッカーでやっていけるのかという疑問もありました。でも、サッカー以外のことは考えられなかったのです。そして、どうしたら上手くなれるか考えた時、大学のサッカー部の監督になった風間八宏さんが思い浮かびました。僕にとって風間さんは憧れ中の憧れの人で、日本代表の風間さんに指導を受ければ上手くなるのではないか、またプロに戻れるのではないかと考えました。自分がサッカー選手としてどうなりたいかというビジョンがなかったので、風間さんに教えてもらったら、何か違うものが見えてくるのではないかと思ったのです。それで、僕は「風間さんのところに行きます!行けますか?」と尋ねました。すると、当時ユースの監督で、今はギラヴァンツの監督をしている小林伸二さん(当時はスカウト担当)が広島から横浜まで新幹線で一緒に行ってくれたのです。めちゃくちゃ緊張しました。結果、風間さんに見てもらうことができて、桐蔭横浜大学に呼んでもらいました。

当時、桐蔭横浜大学はサッカー部を立ち上げて2年目で、そこの選手として入学しました。僕が21歳の時です。僕は高卒だったので、2年浪人した形で大学生になりました。プロの当時は地に足が着いていないというか、調子に乗っていたというか。でも僕としては、「プロ」と言われながらも、自分の中ではプロとしての能力が足りていないという思いがあったので、そこがしっくりこなかったのです。それなら、風間さんのもとで、サッカーをもう一度教えて貰おうと思ったのです。

桐蔭横浜大学は、東京教育大学出身の方たちが集まって作り上げた大学で、筑波大学の流れを汲む大学です。なので、僕はとにかく風間さんに教えてもらいたくて。そしてもう1度プロに戻るんだという気持ちでやってました。でも、一方で心の中では「サッカーがダメだった時のために、大学は出ていたほうがいい」という思いもありました。今思うと、自分に自信がなかったから、そういう気持ちになったのかなと思います。私立大学で、学費免除もない時代だったので、親は「また学費?」と思ったと思います。今でこそ、プロから大学にくる人は1チームに1人くらいはいるんですけど、当時はいなかったですからね。

そこで風間さんに教えてもらえばもう一度プロに戻れると思いましたが、結局、戻れなかったです。

でも、サッカーを通して大人と接して、すごくいい人生勉強にはなりました。風間さんは選手と距離を置かない人だったので、よく食事にも連れていってもらいました。

―― 桐蔭横浜大学の学生サッカー部からの再出発!プロとは?を問い詰め、サッカーを辞めた理由とは?

当時、とてもお世話になったお店で、当時の店名は「さぼてん」で、今は「割烹 八千代」という名前のお店があります。部員3、4人くらいに4合のご飯と大量のおかずを500円で毎日食べさせてもらいました。当時はお金がないので、夜はそのお店で、朝は北部市場でバイトをしてました。朝の5時半からは市場内のお茶屋さんの「つな川」でお客さんの湯飲みを洗ったり、品出しをしたりしていました。そこでは朝ご飯を好きなだけ食べさせてもらっていました。勉強はしていたのかと言われればクエッション(?)ですが、人には恵まれました。食べさせてもらって、試合の応援までしてもらって、本当にありがたかったです。なので、今もこの店で本学の学生がアルバイトをさせてもらっています。

大学に入ってからプロらしい生活は一切できなくなりましたが、社会勉強させてもらいました。そんな生活していたら、当然プロになれないですよね。それでも、風間さんからガイナーレ鳥取を紹介してもらい、練習に行く約束もしていたのですが、1週間前になり、自分がプロとしてやっていくのは難しいと決断したのです。J1、J2以外はプロじゃないという思いもありました。しがみついてできるサッカーもありますが、生活できるくらいの給料がもらえないなら、プロとはいえない。それができないなら辞めようと思いました。風間さんには大変申し訳なかったのですが、直接先方に連絡してお断りしました。それを機に「サッカーを辞める」と決めました。その時は、僕はサッカーが下手だから、人に教えられるものは何もないと思っていました。

選手を辞める=サッカーを辞める、ということです。楽しみでサッカーをやったとしても、プロとしてやるのならお金をもらえないと絶対ダメじゃないですか。テレビに出ている人たちはプロ。アルバイトをしながらしがみつくのはプロじゃないと思っていました。その時24歳で、社会に出るのが遅れるだけだから、スパッと辞めようと決意しました。

その時、風間さんは何も言わなかったです。「好きにやれ!」という感じで干渉はしません。ただ、何かやりたいのなら、協力はするよというスタンスでした。風間さんは今でも、話をするだけで「自分はまだまだ足りない、もっと頑張ろう」とやる気を起こさせてくれる、そんな存在です。小林監督も同様に、自分が足りないことを痛感させてくれます。ユースのOB会で当時の監督にも会う機会がありますが、そのたびに自分のダメさ加減を反省しています。

―― セカンドキャリアへ!

サッカーから離れると決めましたが、サッカーを辞めたら僕には何もないので、すぐに社会には出られなかったです。何がしたいのかもわからないですし、就活もしたことありませんでしたので。その時「まずうちで働きなさい」と、アルバイトしていた「さぼてん」に雇ってもらったのです。仕事はホール係と店長補助です。ある程度は仕事ができるようになっていたので、そこから店長に料理を教えてもらうようになりました。毎朝6時に出勤し、出汁を引いて茶碗蒸しを作って、というのを3カ月ほど続けました。その間、社会勉強をさせてもらう中で、心の整理をつけました。サッカーひと筋に真剣に取り組んできたので、辞めた後は本当に何にもなくなってしまいました。店がなかったらダラダラしていたかもしれないですね。朝6時から夜12時くらいまでずっと働かせてもらいました。今思うと楽しかったですね。

その次は、福岡に帰ってネクタイ屋になりました。父は福岡の百貨店でバイヤーやマネジャーを30年間やっていました。ちょいワルという感じで、カッコいい父でした。その父が新規のネクタイメーカーの会社の社長になったのです。ある会社の取締役だった人から会社を立ち上げるから来ないかと言われて。それで父から「お前も来ないか?」と言われ、洋服は好きなのでやることにしました。新たに「BRISTOL(ブリストル)」というブランドを立ち上げ、主な取引先は百貨店の岩田屋で月曜から金曜までは営業マンとして九州を全部まわっていました。土日も各店舗にお願いして販売員として様々な店舗に立って勉強させてもらいました。当時は休みが欲しいとか、休むという発想がなかったです。今の時代では考えられないですが、そういう時代でしたよね。販売の勉強もできて、売上げも上がる。僕にとっては一石二鳥でしたね。自分が売った土日だけ売り上げがポンと上がるのです。ただ、土日だけではフォローできないので、やはり販売員さんに売ってもらわないとダメだと思い、ときには甘い物を買って販売員さんに持って行ったりしていきました。食事も一緒にするようにして、社員やパートさんたちと親しく接するようにしてました。ネクタイのほとんどは、女性がギフトとして買うため、「いろいろ教えてください!」というスタンスで、コミュニケーションを取るようにもしていました。すると、徐々に「あんたんとこのネクタイ売ったばい」「何本ですか?」「2本。」「足りないよ!」っていうコミュニケーションも取れるようになってきました。当時は若かったので、無条件に可愛がってもらえて、ありがたかったですね。

いろいろ失敗もしましたが、その度にまわりからフォローしてもらいました。しかし、その後、クールビズが始まってしまったので、ネクタイ業界はどうしようもなくなりました。まったく売れなくなり、大手も数社倒産や縮小をしました。当時シャツも売っていたので、細々とやっていましたが、3カ月ほど給料が出なくなりました。僕もその時初めて父に「実は給料もらってないんだ」と話すと、父も同じ状況で、私の状況も知らなかったのです。会計に関してはオーナーの会長が担当していたので、それで、僕だけ先に辞めて、そこからまた職探しです。26歳の時でした。その時に相談して助けてくれたのが、中学生の時にわかばFCで一緒にサッカーをしていた友達です。広告代理店の取締役になっていて、彼から紹介してもらったのが九電工の人材派遣会社でした。タイミングよく採用してもらい、そこで営業マンとなりました。自分が担当したところは、一人で全てやりなさいというスタンスで、求人広告を出したり、面接したりするのも、フォローも新規開拓も全部やらせてもらいました。面白かったですね。そこで感じたのは、「ネクタイ」が「人材」に変わっただけで、やることは同じということです。どう動いてもらうか、どうやったら売り上げが上がるか、結局は人なんだと感じました。小さな会社から大手に入社しましたが、大手は大手なりにいろんなことがあるということがわかり、勉強になりました。

そんなときに、桐蔭横浜大学が関東リーグに入ることになり、当時の八城修総監督から「一人では手一杯だから、来てくれないか」と声をかけて頂いたのです。総監督が前述のお店「割烹八千代」で食事をしていた時、店長に「誰か採用しようと思っている」と言ったら、店長が「ヤス(安武監督の愛称)がいる」と言ってくれたのです。その時、総監督は「今までの桐蔭横浜大学サッカー部の中で一番頑張っていたのは安武だ」と言ってくれたそうです。